さんぎょうのおぼえがき

アニメとかの話

『天気の子』短く総括

前回の記事はあまりにも長すぎる上に要領を得なかったので、『天気の子』がどういう作品だったのか改めて短く総括します。

  • どうしようもなく壊れた世界で、どこか正しくないところを抱えながら、僕たちは生活している。(終末系日常もの)
  • その生活は正しさを求める世界のうねりによって簡単に失われてしまう。(新日常系*1
  • 僕たちは、正しさと生活を天秤にかけることを迫られる。そのときは、たとえ正しくないとしても、生活を選んでいいのだ。(セカイ系+α)
  • そうして選び取った世界は、恐ろしくも美しく、愛おしいものになるだろう。

イカれた世界に生きる若者たち・私たちに向けたエールであると私は捉えました。

*1:新日常系が入っているという点は私が気付いたものではなく、某氏の指摘で気付かされたものです。感謝します。

『天気の子』は終末系日常ものの記念碑的作品である

筋金入りとまではいかないにせよ、うるさ型のオタクを自認する私は、『天気の子』にさして期待を抱いてはいませんでした。

秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』に強く惹かれ、『君の名は。』については「良い作品だが取り立てて絶賛するものでもない」という評価に留まった私は、『天気の子』に対しても「新海監督がまた『君の名は。』みたいなのを作るんだな」程度の粗い事前認識しかなく、公開日すらよく把握していない状況でした。

ですがその先入観は実際に鑑賞したことで一気に覆されてしまいました。開始10分程度*1で私の中にある認識が芽生え、それは映画が進むにつれて補強されていき、ラストまで裏切られることはありませんでした。そして鑑賞後、パンフレットに掲載された新海監督のインタビューを見たことで、それは確信へと至ったのです。

その認識とは、他ならないこの記事のタイトル、「『天気の子』は終末系日常ものの記念碑的作品である」という主張でした。

いい機会なので、終末系日常ものに関してこれまで考えていたことのまとめを兼ねて、『天気の子』感想記事にしたいと思います。

以下では鑑賞済みを前提として話をします。盛大にネタバレをする上に見ていないと話が分からないかと思いますので、未見の方は今すぐブラウザバックして劇場に駆け込んで鑑賞してから読むことをオススメいたします。

前段・終末系日常ものに関する一般論

終末系日常ものの特徴付けと具体例

「終末系日常もの」とは、ある作品群に対して私が勝手に*2名付けているカテゴリであり、おおよそ次のような点によって特徴づけられます。

  • 大局的な見地から言って、世界が既に修復の余地なく破壊されている。
  • しかし一方で局所的な生活は維持できないこともない。
  • 人物たちは世界が壊れてしまった理由にアクセスできない・しようとも思わないまま、比較的安穏とした生活を営んでいる。

要するに「ポストアポカリプス世界でスローライフ」と言い表せるような作品のことです。

典型的な例として『少女終末旅行』が挙げられます。

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

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また、アニメ『けものフレンズ』1期があれほどの人気を博したのは、明示的ではないにせよ、終末系日常ものの匂いがあったことが一因であると私は考えています*3。その雰囲気は同監督の『ケムリクサ』においてより明確に打ち出されました。

けものフレンズ Blu-ray BOX

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この類型のはしりとして『ヨコハマ買い出し紀行』が挙げられることが多いですが、私はまだ見ていません。すみません。

最近では(ドンピシャは中々ないにせよ)類作がポコポコ出ていて、例えば『旅とごはんと終末世界』や『終末の貞子さん』がそのような雰囲気を帯びています。

終末の貞子さん (MFコミックス ジーンシリーズ)

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ゲーム分野では、アトリエの黄昏シリーズや、近日発売された『じんるいのみなさまへ』が世界観として近いようですが、こちらもプレイしていません。すみません。 

アーシャのアトリエ Plus ~黄昏の大地の錬金術士~ - PS Vita

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とまぁずらずらと並べてみましたが、このように終末系日常もの作品は、数年前頃から活発になり始めて本年(2019年)においても勢力を伸ばしつつある、と言ってよさそうです。このあたりの歴史にも興味はありますが、私はまだ調べ尽くしていません。

なぜ終末系日常ものなのか

私がなぜ終末系日常ものに注目しているのか。それは端的に言って、終末系日常ものが現代の戯画であると考えているからに他なりません。

だって考えてみてください。

今の社会、ぶっ壊れてませんか?

年金や貧困の問題は言うまでもなく、世界情勢も一向に安定の兆しが見えない中、日本の国際的地位・社会的基盤は年々どころか日に日に危うさを増している……その認識は、少なくとも国内の若年層~壮年層に共有されているのではないかと思います*4

しかもその崩壊に、我々は直接関与できなかった。物心ついた頃から失われたウン十年と言われ、社会制度の大枠は生まれる前に固まってしまっていた。

もちろん投票や政治活動といった行動によって世界に働きかけるチャンネルは存在しているものの、全共闘世代においては少なからずリアリティを有していたであろう「自分たちが戦い抜けば世界はより良くなる」という情熱は、現代では既に絶えてしまったと言ってよいのではないかと思います。

でも、ぶっ壊れた社会でも、私たちは生きてませんか?

自分の先行きに対して明るい印象は全く抱けないが、しかし一方で明日いきなり死ぬようなことは流石に無いだろう、大部分の方がそのように思っているではないかと思います*5。むしろ、不自由が無いではないにせよ、自分の手の届く範囲の生活にそれなりの満足を持っている方がほとんどでしょう。

先行きについては全くもって悲観的でありながら、身近な日常においては満ち足りて生活を営んでいる。それが“若者”の生きている日常の姿であるとの指摘は、社会学者・古市氏の著書『絶望の国の幸福な若者たち』においてなされています*6。この書籍の初版は2011年ですが、この傾向は近年において決して弱まっていない、むしろ社会全体に浸透しつつあると感じています。

そして上の話を見れば分かるように、現代の若者の日常は終末系日常ものであると私は考えているのです。

 

本論・『天気の子』感想

その1・終末系日常ものとしての『天気の子』

さて、長い前置きを終えて本題に移りましょう。

本作『天気の子』の中心的な主題は雨です。連日降り続く記録的な長雨と、その雨を晴らすことができる少女が映画の中心となっています。

そして、これが極めて重要なのですが、本作における異常な雨は狂いつつある現代世界の象徴に他なりません。これは何も私の狂信的妄想ではなく、新海監督自身がインタビュー*7において(一言一句同じではないにせよ)語っていることです。

本作における「雨」とは、現代社会を覆っている閉塞した空気感そのものです。陰鬱な空気が世間を支配して、人々はうつむいて足元の水溜りを避けながら歩き、たまに見上げては降り止む気配のない雨脚を憂い、老婦人は「昔はこんなことは無かった」と若者を憐れむ。そんな街に主人公・帆高はやってきます。

しかし、そんな東京は決して絶望に染まった街ではありません。人々は雨に困らされながらも各々の生活を大きな支障なく営んでおり、帆高もまた、初めは上手く軌道に乗らない苦労を重ねていましたが、やがて街に馴染み溌剌とした生活を送っています。

そう、この映画は出発点において既に終末系日常ものなのです。いつまでも続く雨模様に人々は為す術なく、しかしそれをどうすることもできないまま、各々にそれなりの日常を営んでいます。

この雨、すなわち閉塞した空気は、一時的に晴らすことができます。それは、帆高にとってはヒロイン・陽菜との出会いと交流であり、陽菜の特殊な能力であり、現実においてはきっと素晴らしい芸術作品との出会い、スポーツ選手の目覚ましい活躍、愛する人との楽しいひとときであるのでしょう。しかしそれは永遠ではなく、再び陰鬱な雨が世界を覆い尽くし、人々は日常へと戻っていきます。

物語のラストにおいて、ついに雨は晴らすことすらできなくなり、東京水没という破滅的な事態を齎します。雨は二人にとって重要な場所である廃ビルや穏やかな下町の家*8を破壊し、もはや後戻りのできない喪失を帆高に与えます。

しかし、そのような状況においても、人々は絶望に打ちひしがれてはいません。新たな地に居を移し、春になったらお花見を楽しみにするようなささやかな生活が再び営まれ、その中で帆高と陽菜は再会し物語は円団*9を迎えます。この映画は着地点においても終末系日常ものであるわけです。

この作品に終末系日常もの的世界観が充満しているという主張は、作中で帆高たちが歌う2曲のヒット曲「恋するフォーチュンクッキー」「恋」によっても補強されます。これらの歌詞から引用しましょう。

恋するフォーチュンクッキー! 未来はそんな悪くないよ

意味なんかないさ 暮らしがあるだけ

前者は無根拠でありながら底抜けに明るい楽観を、後者は大きな意味が消失した現代における生活の実感を歌い、共にヒットナンバーとなりました。これらに反映されている現代の意識こそが終末系日常ものの世界観であり、それが『天気の子』にも反映されているのです。

このように、『天気の子』は終末系日常もの的な地点から出発し、日常描写においてその空気を保ったまま進行し、終末系日常ものへと回帰していく構図を持ちます。そして既に述べたように、終末系日常ものは現代の写し絵です。

つまり、『天気の子』は終末系日常もの的な現代に根ざしてそれを鮮やかに描いた作品であると言ってよいかと思います。

具体例の節で挙げているように、終末系日常もの作品は勢力を伸ばしてはいるものの、決して主流を占めているわけではなく、「知ってる人は知っている」という立ち位置であるのが現状です。その状況において、あの新海監督が終末系日常もの的な価値観を有する新作を世に出したわけです。これだけでも記念碑的な大事件でありましょう。

その2・『天気の子』と選択

さて、『天気の子』は終末系日常ものとしての性質を有している、という話をしましたが、しかし同時に、従来の終末系日常ものとは一線を画する部分も有しています。

従来の終末系日常ものにおいて、終末の理由は(私が知る限りでは)明確に語られません。終末は人々の手の届かないところで発生し、世界は既にどうしようもなく壊れた状態で人物たちに与えられます。

しかし本作において、終末の決定権、即ち雨を止ませるかどうかという最終的な選択は主人公である帆高に委ねられています。作中人物に終末の決定権が委ねられているという点で、本作は従来の終末系日常ものとは様相を異にするものです。

「陽菜を取り戻せば世界に取り返しのつかない事態が起こる」という構図はむしろ、セカイと世界の接続というセカイ系的な文脈に属しています。ヒロインと世界の二択を迫られるという類型はセカイ系の一条件として挙げられる事項です*10陽菜を巡る物語はもっぱらセカイ系的なスキームで駆動しているのです。

そして帆高は陽菜を選ぶことで、止まない長雨、即ち終末を齎すこととなります。前節において、本作は導入においても結末においても終末系日常ものであると述べました。しかし実は両者のあり方は同一ではありません。導入における狂った世界は与えられたものであるのに対して、結末における狂った世界は選び取ったものであるのです。

ここで少し脱線しましょう。新海監督とセカイ系といえば、セカイ系の典型として挙げられる『ほしのこえ』が想起されます。『ほしのこえ』において主人公は、世界を担って戦うヒロインを送り出すことしかできません。これは即ち、彼女を選んだ際に訪れる終末を彼は担えなかったということでしょう。

さて、翻って『天気の子』です。確かに帆高の選択によって終末が齎されました。しかしそれは、従来のセカイ系において語られていたような全てが死滅するような終末ではありません。遠く離れた島には何の関係もない、水没した東京でも何だかんだ人々は生活している、そんなゆるい終末がやって来たのでした。この「何だかんだ生活できるゆるい終末」というのは終末系日常ものの世界に他なりません。帆高が選び取ったのは陽菜であると同時に、陽菜と共に営んでいく終末系の日常であるのです。

さて、『天気の子』はセカイ系の構造を用いて終末系の日常を能動的に選択する物語であったことが分かりました。選択というものについて、新海監督はインタビューの冒頭で言及しています。先人たちの選択の結果によって生み出された終末世界を、若者たちは選択の余地なく与えられてしまいます。この「与えられた終末世界」の内に愛すべき日常を見出し、自分たちのものとして改めて選択する物語が『天気の子』なのです。

その3・“正しくない”世界の肯定 

帆高はセカイ系的な選択に迫られ、陽菜を選んで終末を齎しました。個人的な心情としてはこれでメデタシメデタシで良いのですが、我々は社会的な存在である以上、常に問われ続けることがあります。

果たしてこの選択は正しかったのだろうか?

良識的な人であれば、この質問にはうなずきがたいでしょう。あるいは最大多数の最大幸福の原則によれば、誰か一人の犠牲によって東京全体が救われるのならばその犠牲は許容されるべきものです。誰か一人のために数万人の生活に負担を強いることは常識に則っても承服しがたいでしょう*11。「これで良かったのか?」という問いが本作のラストには付きまといます。

これに関して、帆高が正しかったと全面的に断言することは私にはできません。しかし、逆に問い返すことはできます。

果たして正しいことは善いことなのでしょうか?

この問いに迫るために、本作における警察の立ち回りについて考えてみましょう。

本作において警察は常に正しい存在として描かれています。彼らの主張や行動は常に正しく、職務に忠実です。そしてその正しさによって帆高を追い、陽菜たちの生活を脅かすこととなります。正しい人々は、その正しさによって正しくない人々の生活を解体する宿命にあるのです。

その姿は、是枝裕和監督の『万引き家族』において描かれていたものと通底しています。貧困ゆえに正しくない行為で結束していた家族は、正しさに晒されたことで解体し、世間に取り込まれていきます。

是枝監督は「正しくないものを排斥するのか」と問いかけました。そして新海監督はそれを一捻りして、「正しくないものも受容しよう」と主張しているのです。

正しくないもの、それは狂った世界、雨の東京です。晴れることが正しい*12と迫る世界に対して、帆高は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と正しくない世界を受容します

正しくないもの、それは貧困です。古アパートに住む貧乏暮らしの陽菜と凪は、しかし困窮している様子は見せず、貧乏なりに工夫を凝らして生活する魅力的な人物として描かれています。現代において貧乏とは、排除すべき悪でも憎らしい敵でもなく、上手く付き合っていくべき隣人であるのです*13

正しくないもの、それは拳銃です。偶然手にした拳銃を所持し使用した帆高に対し、陽菜は初めは糾弾の言葉を投げますが、その後彼を受容して心を開きます。そしてこの拳銃はクライマックスにおいて大きな役割を果たしたのでした。

正しくないもの、それは水没した東京です。見慣れた東京の街が水没する恐ろしさ。しかしそこでも人は生活できる。決して正しくない世界において、「だからなんなんだとある意味開き直って生きていく*14。それこそが、終末系日常ものの現代における我々の態度であると、新海監督はそのように提案しているのではないでしょうか。

これは、良識的な一般市民の皆さんにとっては挑戦的な内容であるかと思います。監督が「ラストの反応だけは想定できていない」と述べたのはこのような意味ではないかと思います。

その4・セカイ系としての『天気の子』

さて、セカイ系の1バリエーションとして『天気の子』を見ても、従来の作品と異なる部分があります。

セカイ系において描かれる世界の終末は、それによって人類や地球、身近な生活全てが破壊されるような真の終末であり、そこで全てが終わりを迎える真の終末です。しかし、『天気の子』において齎された終末、即ち水没した東京は、そこに息づき生活することが許されるようなゆるさを備えた終末系日常ものの世界です。「終末を迎えたその先」がゆったりと続いているという点において、『天気の子』はセカイ系としても特殊な位置にあるのです。

 追補・ラストについての注釈 - 取り戻すべき日常の姿

ツイッターで作品の反応を見ていると、やはりラストに対する動揺が散見されます。東京が丸ごと水没して、人々が避難生活を余儀なくされているのに、これをハッピーエンドとして受容してよいのか、という躊躇いです。

私としては、開始10分から待ち望んでいた展開が十全に結実したラストであったので、劇場で内心大喝采を上げていたのですが、しかし何の前提も無しであれを許容するのは難しいのかもしれません。

確かに、『天気の子』のラストは一見ハッピーエンドとは言い難いでしょう。ハッピーエンドとは、追い求めていた対象(ここでは陽菜)と共に取り戻すべき日常へ帰っていくシークエンスであるはずです。

しかしここで問うべきは、「『取り戻すべき日常』とは一体何であったか」という点なのです。

取り戻すべき日常とは、晴れ渡った東京であったのでしょうか? ――答えは否です。晴れ渡った東京において人々は明るい顔を空に向け、警察は己の職務を執行して正義が街に行き渡っています。しかしその街は、正義によって排除される者によって成り立つ世界に他なりません。

陽菜の犠牲によって齎された天候の均衡は、しかし永遠のものではありません。いずれ再び均衡は崩れ、世界は人柱を求めるでしょう。そのことは、繰り返されてきたという天気の巫女の歴史によって物語られています。『晴れ』の世界は、明るく幸せではあるが常に排除される者の犠牲によって束の間与えられるものでしかないのです。

本記事を読んできた皆様ならばお分かりでしょう。取り戻すべき日常は『晴れ』ではなく『雨』なのです

新海監督はインタビューにおいて、「調和を取り戻す物語はやめようと思っていた」と語っています。ここにおける『調和』とは『晴れ』に他なりません。本作において取り戻すべきは「狂った世界」=雨の東京である、と明確に意識した上で制作されています。

以上の内容は物語理論的にも支持されます。物語構成における三幕理論は、主人公たちが取り戻すべき日常は「第一幕」において描かれると教えています。第一幕は映画全体において最初の1/4程度を占めている部分です。

さて、『天気の子』において、開始から1/4経った時点はどんな場面だったでしょう。それは帆高が事務所での居場所を確立し、RADWIMPSの歌を背景に、雨の東京を駆け回っていた、あの場面に他なりません。第一幕において確立した、雨の東京における日常。それこそが、帆高が取り戻すべき日常なのです。

東京全体が水没したラストの絵面は空恐ろしくショッキングです。しかしその恐ろしさは雨の東京に内在していたものに他なりません。そしてその光景は恐ろしいと同時に美しく、そしてそこに息づく人々の生活―破局の先にある日常―を伴ったものです。

水没した東京は、恐ろしくも美しく、そして愛おしい。それこそが現代を生きる我々の日常の姿であると、あのラストは告げているのです。

雨の東京においては内在するに留まっていた破滅は、帆高が自分の日常を選択し、引き受けたからこそ、顕在化し美しさを明らかにしました。自らの、終末系日常ものとしての生活を認識し、その恐ろしさを飲み込んで引き受けることを、新海監督は訴えているのです。これは何も私の妄想ではなく、新海監督はインタビューで『天気の子』を「狂った世界を選択し、ある意味開き直って生きていく話」であると語っています。

終局の上で微睡む日常の切なさと美しさは終末系日常ものの醍醐味です。新海監督が、全国の中高生が見るような舞台において、最高の映像と万全のシナリオでもってそれを提示してくれたことに、私は快哉を叫びたいと思います。

よくやった、新海誠!!!!!!!!

追補・津波との関係 - 災害後の生活

水没した東京のビジュアルと、主に東日本大震災における津波の映像の類似を指摘する方もおられるかと思います。おそらくその指摘は正しく、あの東京は災害に見舞われた都市の姿でもあるでしょう*15

そしてその上で、東京を災害から抜け出さないままエンドマークを迎えることに疑義を唱える方もおられるかもしれません。その点についてははっきりと反論させていただきたい。東京から災害が去ることで一件落着と言えるのでしょうか?

災害とは、その場限りのものではありません。災害が訪れた後、多くのものを失った後に横たわる茫漠な生活こそが真の正念場であると言います。一度訪れた災害は、その後長く、一生にも及ぶ時間、人々の隣人として居座るものです。

その観点については『シンゴジラ』においても描かれていました。凍結されたゴジラは東京の中心に佇み続け、我々はゴジラと向き合い続けるしかない、というラストです*16庵野監督はゴジラ東日本大震災を仮託し、警鐘として描きました。

同じように新海監督は、東京を水没させた豪雨に、東日本大震災、そして景気の低迷や社会保障危機といった無形の災害を重ね、狂った世界に生きる若者たちへのエールとして描いているのです。

蛇足・終末系日常ものとは一切関係ない雑感

終末系日常ものとは関係ありませんが、『天気の子』の感想の一部ということでこの記事にまとめさせてください。飛ばしても論旨には問題ありません。

  • 本記事では終末系日常ものに焦点を当てていますが、鑑賞中に感動したのはむしろシナリオ構成の確かさでした。新海監督がこんなにしっかりした長編シナリオを書くようになるなんて……(謎の保護者目線)。鑑賞しながら一応シナリオ分析的なことも考えていましたが、王道も王道な展開だったので大して目新しいこともなく、わざわざ文章化はしません。
  • 途中で「お盆」について説明し始めるくだり。初見では「お盆を知らない人居るわけないでしょw」とウケてしまいましたが、しかしこれは海外展開を見据えた配慮なのでしょうね。実際思い返すと、『君の名は。』と比べて日本文化を知らないと分からないことが極めて少ない気がします。きちんと検証していないですが。
  • 花火のシーン。打ち上がる花火の合間を縫って飛んでいくカットに重きを置かれていて印象深かったです。これはきっとドローン撮影の映像感覚で、新海監督は映像表現の面でも現代的であることを再確認しました。
  • 瀧と三葉がゲスト出演していて少し嬉しくなりましたが、冷静に考えると「故郷の村が彗星で消滅して東京に出てきたのに数年で水没」ってあまりにもひどくないですか。しかし新海監督は雪野先生でも似たようなことしてるしなぁ……。細かいことは気にせずスターシステムと割り切ればよいのでしょうか。あと四葉も居たらしいけれど分かりませんでした。

『天気の子』、ちょーおもしろかったです。

 

 

 

 

 

……で終わるのは流石になんなので、本記事の論旨をまとめます。

  1. 『天気の子』は終末系日常もの的世界観に支配されながら、同時にセカイ系としての構造を有し、その結果、どちらとしても特異なあり方を示すものである。
  2. 『天気の子』は終末世界を与えられた主人公が、セカイ系的過程を経て、終末世界を自ら肯定し引き受ける物語である。
  3. 『天気の子』は終末系日常もの的な現代を鮮やかに描いた作品である。

以上、乱文失礼いたしました。ご覧いただきありがとうございました。

本記事が皆様に新しい知見を与えたことを祈ります。もしそうであれば、その知見を念頭に置いて再び鑑賞いただくのも一興かもしれません。

また、本記事と合わせて新海監督のインタビューをご覧になることを強くおすすめします。終末系日常もの的世界観が現代の若者にとって標準であることを、監督が感じ取った上で制作していたことが窺える内容となっているはずです。

*1:体感なので正確ではないかもしれません。

*2:他にも同様の概念を名付けている方はいるかもしれません。少なくとも私は明示的にそのような方々から引用しているわけではない、という意味です。

*3:もちろん当時のムーブメントに参画していた全員がそれを意識していたとは思いません。念の為。

*4:そんなことはない、世界はこれから良くなっていくし将来は薔薇色だと思っている方もいるかもしれません。すみませんが、私はそうは感じられません。

*5:もちろん、今にも死にそうな苦難の中に居るかたもおられるでしょう。また、つい先日京都アニメーションで起こった痛ましい事件は、我々の日常の脆さを痛感させました。しかし、幸か不幸か、今の社会においてそれは大多数ではありません。そのような事態が大多数となれば社会は維持できません。黙殺したいと思うわけではありませんという旨を付け加えさせてください。

*6:当該書では“若者”とは何たるかについて紙面を割いて考察していますが、ここでは割愛。

*7:映画パンフレットに掲載されたインタビュー。以下でも同様。

*8:冨美の家はインタビューにおいて「聖域」と表現されています。

*9:この結末を円団と捉えられない方もいるかと思いますが、その点については後述。

*10:しかし私には具体例がパッと思いつかないですが……。

*11:インタビューにおいて、新海監督は常識や最大多数の最大幸福を帆高の敵と明言しています。

*12:作中、警察の力が最も強く発揮されていたのは、陽菜が居なくなった晴れの東京においてでした。

*13:インタビューにおいて新海監督は、若者にとって貧困が当たり前になっている、と言及しています。

*14:インタビューより。

*15:そもそも作中の豪雨自体が未曾有の災害です。

*16:これが原子炉の象徴であることは言を俟ちません。