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黑川杯体験記、ならびに私の現況説明、あるいは(私としては極めて珍しい)思想の明文化、またはノンポリツイッタラーは如何にして心配するのを止めて黑川杯に参加するようになったか

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1.黑川杯参加経緯と当日の体験記

1.1 前日までの流れ

私が「黑川杯」を知ったのは、本当に偶然であった。 ツイッターのタイムラインで、誰かが面白半分に回してきたのが目に止まったのだ。 「面白い!!!!!」。 私は企画の痛快さに一目惚れしていた。

これには、大きく分けて2つの要因がある。

第一に、これは言うまでもなく、黒川元検事長の処分に対する疑義である。 テンピンレートが市井において広く黙認されていることは十分に承知しているが、 同時に、それは法の条文としてはまごうことなく違法行為である。 誰よりも法を遵守すべき役職に就いた者がそれに手を染めていたことが明らかになったとき、 違法性について正式な捜査を経ることなく訓告処分で手打ちとされた、その状況に対して憤りがあった。

黒川氏という私人に対して思うところはない。検事長を務めていようが、賭け麻雀をしたくなることもあるだろう。 しかし、違法行為に手を染めるのならば、それが発覚した際は捜査に晒され、起訴・不起訴から始まる公的判断を受ける必要がある。 それが、憲法によって統制された国家権力に、主権を預け、支配を預ける国民の義務であろう。 捜査がなされ、その結果、判例や証拠不足から判断して不起訴処分とされるのならば、私はその「判決」に異論を持たない。 そこに疑義を申し立てるのは私の知識と判断の域を超えており、有識者に預けるべき案件であるからだ。

黒川元検事長の一件を通じて、私は国家権力というシステムの揺らぎを感じていた。 しかしそれを、デモや抗議活動という形で表出することは、私は自分に許せなかった。

私はデモが苦手である。 他人がやる分には勝手にすればいい。左翼だろうが右翼だろうがノンポリだろうが、主義主張のもとに団結して行動によって示すことは、好きにすればいい。 私が苦手なのは、「デモ」という形態に自分が参画することである。 主義主張の表現手段としてパッケージされた「デモ」という形態に自らを組み込み、「デモ」の一部として振る舞うこと、 その行為自体に私は強い抑圧を感じて、自らその門下に入ることが耐えられないのである。

そういうわけで、私は、国家権力の揺らぎに対する憤りや不安を、表出する手段を持たなかった。 せいぜいがツイッターでオブラートに包んだ皮肉として表現する程度だった。 「社会への怒りを具体的にはっきりと主張する」という行為も、ある種の定型化された社会活動であり、私はそれに参画できない身であったのだ。

私にとって、黑川杯は「既成のパッケージに囚われずに社会へのおそれを表出できる」企画であった。

第二に、「黑川杯」のセンスが、私に強く共鳴した。

私はガキンチョである。 人の揚げ足を取ってからかい、親や先生の言っていることの穴を突いてしたり顔をすることが大好きな、救いようのない悪ガキである。 もちろん、誰彼構わずそのような態度を取ることは、社会的に許されるものではない。 愛すべき友人に対してそのようなことをすれば関係を損なうことは間違いない。 だからこそ私は「大人になり」、良識ある善良な一市民として振る舞ってきた。 その「良識ある善良な一市民」としての自分が偽りであったというつもりはない。 それを選択したのは自分であり、自分はそのような自分であることに引け目を持っていない。 しかし、それと同じくらい、私はどこまでいっても「悪ガキ」であり、 権威的なものを、ある程度安全であることが確保されている場所から、おちょくりからかう機会を伺っていた。

私は、友人知人たちと比べて、この「安全」の基準が極めて低いらしい。 いわゆる「普通」の人は、自らの社会的信用や経歴に傷が付くことをもって「危険」と認識するらしいが、 私は、精神・身体の活動に重大な後遺症が残る可能性が高くないのであれば、十分に「安全」であると感じる。 もちろん警察の非人道的取り調べによって命を落としたり後遺症が残ったりする嘆かわしい事件も発生しているが、 それも統計的には少数であり、本件のようなセンシティブな案件において、警察が杜撰な外れ値的振る舞いをする可能性は低いだろう。

また、ガキンチョの私は、私の行ないによって人を驚かすことが好きだ。 なるべく多くの人をぎょっとさせたい。 その点、黑川杯は、時事性、問題提起性、ユーモアセンスから、十分に注目されることが期待された。 (そして実際、結果論として、それは正しかった。私はそのことで深く悦に浸っている)

私にとって、黑川杯は「リスクはあるがそれ以上のリターンを期待できる」企画であった。

このような条件が重なり、私は「黑川杯」という企画に惚れ込んだ。 企画概要を読み終わったときには既に、なるべく中心的な役割で参加したいという思いは固まっていた。 少々迷ったのは、平日開催となった場合に仕事を休めるかどうか、という、実務的な点だけである。 そうして私は、twipla上では3番目の参加者として、黑川杯に名を連ねたのである。

それから数日後、主催者たる自稱家元氏と通話をし、 本企画が賭博罪での現行犯逮捕の危険性を伴い、逮捕によって社会的地位を失う可能性があるというご説明と、それでもやるのかという意思確認を受けた。 私は、「こんな面白い企画をみすみす見逃すのは絶対に嫌だ」という思いを伝え、氏に「舊知の間柄のような氣がした人」として認めていただき、打ち手として、黑川杯へ参加する承認をいただいた。

通話を終えた直後、数日後に設定された開催日に合わせて、私は夜行バスのチケットを取った。 コロナの煽りだろうか、夜行バスの本数は少なく、値段は私の体感よりずっと値上がりしていた。

「黑川杯」のビラを作り、配ったのは、私の一存である。

その場を通りかかった何も知らない市民の認識が、「アブナイ人がヨクワカランことをしている」で終わるのが、私には勿体なく感じた。 黑川杯というイベントをなるべく広く告知するために、そして黑川杯というイベントの物質的な記憶として、 私は企画に極力沿ったデザインになるようにビラを作成した。 文章内容は、それによって自稱家元氏が不利を被らないよう、氏による声明からなるべく内容を変えないように編纂したものだ。 (もし文面が異なってしまっているために法的に穴が出来ているとすれば、それは私の責任であり、深くお詫び申し上げます。 また、ビラ配り行為そのものが条例などに引っかかるおそれについては、当日は見落としておりました。今後はより慎重に判断いたします)。 ロゴのデザインも、企画の意図を汲み、まず第一に麻雀大会のロゴとしてカッコよくなることを目標とした。 その上で、これは私の個人的主張、あえて言うならば「作家性」として、一抹の風刺を混ぜ込んだ。 出来栄えにはかなり満足しているので、もしよければ、皆様もう一度見ていただきたい。面白いロゴだと思ったら褒めてもらえると嬉しい。 (文字に使用したフォントは商用・非商用問わず使用可能なフリーフォントであり、使用用途を制限する条項が無かったため、その点の問題はクリアしていると認識しています)。

1.2 当日の動き

5月29日夜、仕事を早めに切り上げた私は、最低限の荷物だけを持って夜行バスに乗り込んだ。 高いバスの座席は三列シートで、カーテンを引いて個室のようにすることができた。 私が知る、四列シートの座席で肩をぶつけ合いながら、人間が貨物のように輸送される格安バスと比べて、大変快適な一夜を過ごせた。

30日早朝、東京に着いた私は友人宅で待機し、 その後、都内某所で黑川杯運営者の一人と落ち合った。 その人物に案内され、某書店にて逮捕された際の対応をまとめた冊子を買い与えていただき (非常に趣味が良く面白い書店であったので、今後も東京に赴いたときには足を運びたいと思う)、 その後、霞が関の駅で主催者一味と合流した。

検察庁庁舎は、霞が関駅から歩いてすぐの場所にあった。 我々は歩道橋下を会場として見定めた。 この場所で慎ましく雀卓を囲んでいれば、「交通の妨害となるような方法で物をみだりに道路に置いたり、道路上の人や車を損傷させるおそれのある物を投げるなどの行為を行うこと」という道交法上の禁止事項に当たらず、 道路使用許可を申請する必要もない。これは、私自身が事前に警察庁HPで条項を確認し、私自身として判断したことだ。 これで道交法でお縄などという興醒めな幕切れは避けられるはずだ。 唯一懸念があるとすれば、ちょうどすぐ脇の車道端に停められた、一台の車両から醸し出される不穏な気配だけであった。

雀卓を設置し、牌をケースから出したあたりで、件の車両から警察官が飛び出してきた。 その後の警察官とのやり取りについては、動画記録を参照いただくのが良いだろう。 警察官の頑なな態度に対して、恫喝的・罵声的にすら感じる大声と強硬的態度で対抗するという、新左翼的なやり口については、正直言って面食らった。 しかし、善良な一市民として暮らしてきた私には、法的根拠が薄いままに体制側の思想を押し通そうとする警察官と真正面から対峙するための方法論が無く、その場はお任せするのが妥当であろうと判断した。

私は、緊迫した雀卓付近を離れ、怪訝な目で見守る通行人・周辺住民へビラを配るために走り出した。 それは、問答無用でしょっぴかれる危険性から距離を置く逃げの一手であり、せっかく刷ったビラを無駄にしたくないという貧乏根性であり、作ったビラを見てもらいたいという顕示欲であり、 黑川杯が「おっかない活動団体の意味不明な反社会的行動」というお仕着せの認識で人々に刻み込まれることへの恐怖であり、 黑川杯という企画を一人でも多くの人に知ってもらいたいという使命感であり、 平穏な日常生活を乱していることに対する説明責任であった。

私は、騒動に目を向けているあらゆる人にビラを配った。 怪訝な顔をしながらビラを受け取る人が大半だった。 受け取りを拒否して足早に立ち去る人も多かった。 応援の言葉を掛けて、政治への怒りを語るおじさんがいた。 「インターネットで見たよ」と反応してくれたお兄さんがいた。 不思議な目で見ていた少年たちには、一人ひとりにビラを手渡して、ご両親に聞いてみるよう促した。 外国人らしき一団は、ビラの日本語が読めなかったので、拙い英語で黒川元検事長の事件の経緯と自分たちのやろうとしていることについて説明し、最終的に "Thank you!" の言葉を交わしあった。

私のビラ配りは、雀卓が場を移し、公園内での攻防に戦局が移ってからも続いていた。 フェンスの向こうから眺めていた人たちに、フェンス越しにビラを渡した。 若い男女二人連れ(夫婦だろうか?)の、女性の方からは、「子供の居る公園にこのような険悪な空気を持ち込むのは許せない」と険の強い眼差しで主張された。まったくもってその通りだ。 私が謝罪し、主催者に伝えておくと答えると、彼女は「あなたに言うことじゃないけれど」と、少し目を伏せて付け加えた。その一言によって、私は彼女を尊敬した。

ビラ配りは雀卓の動向を伺いながら行なっていたが、気付くと既に東一局が始まっていた。 警察による目隠しがあったとはいえ、あれほど強く打ち手として参加したいと願いながら、開始時にその場に居なかったのは完全なる不覚だった。 雀卓は既に、岩のように押し黙った警官たちによって取り囲まれており、それを押しのけて席につこうとすれば公妨を取られるのは明らかだった。 それでも私は、警察官の隙間から手を伸ばし、東二局から参戦することに成功した。

警察官の陰に隠れ、警察官に触れないよう隙間を縫って、不自由な視界で配牌を確認し、ツモ牌を上家に取ってもらう。麻雀としてはあまりにもひどい環境だったが、 その姿が私には、私自身の人生そのものの戯画であるように思えて、無性に愉快な気持ちであった。 幸いにして配牌は極めて良かった。配牌時点で刻子が2つほどあり、残りもほとんどが面子に絡んでいる。 運が良い。心からそう思う。私はここ一番の悪運はとことん強い人間なのだ。

「おまわりさんも一緒に麻雀打ちましょうよ!」

私は自然とそう言っていた。もちろんこれは、警察官を挑発したい悪ガキの言葉である。 しかし同時に、純粋に彼らと、「警戒対象と警察官」としてではなく人間同士として遊びたい、そんな思いの発露でもあったように思う。

ムダヅモも少なく手が進み、流れるように立直を宣言した。そして私は一発でツモった。 立直ツモ一発という運の塊のようなアガリ手だ。40符3翻の5200点だったように思うが、私は恥ずかしながら点計算ができず、またあの場で正確に点計算できる者がいたかは非常に怪しい。 しかし、そんなことはどうでもいい。「旧知の間柄のような気がする人」で打つ麻雀で、点のことなど細かく言わなくてもいいだろう。

そして東三局の準備をしているうちに、公園の閉園時間が迫っていると告げられた。 撤収するべきだろう。私はそう思ったし、同席者は皆そう思ったようだ。 雀卓と牌は速やかに片付けられ、私たちはその場を後にした。

半荘達成ならずによる賭博不成立。 一旦解散してから場所を移して再開すれば、警察官の目を縫って、賭博を完遂することも可能だっただろう。 しかし私がそこまで付き合ったかどうかは疑問だ。 確かに、賭博の現行犯で逮捕されるという経験への興味はある。 しかし、一旦はお開きになった場を再び加熱してまでイデオロギー的純粋性を求めるという「活動家的」な真摯さは、私は持ち合わせていなかった。 私はもう既に満足した。警察がわんさか動いたし、観衆へのパフォーマンスも済んで、打ち手として一局上がるという名誉も手にした。 もう十分だった。私はもう、すっかり満足していた。

その後、自稱家元氏を中心とした一団は、遠巻きに監視する警察官たちを眺めながら、広場の外で互いをねぎらい、駄弁り、遅れてやってきた取材班に対応し、ブランコで遊んでいた。 私は、その一団の隅っこに引っかかりながら、観衆として足を運んできていた知人らと思わぬ再会をしたことを喜び、近況報告などをしていた。

そして私たちは公園を後にし、打ち上げの飲み会へと流れていったのだった。

2.私について

もしかすると私を以前から知る人の中には、私の身を案じてくれている人がいるかも知れない。 怪しげな市民運動に面白半分に飛び込んで、危険思想の尖兵へと身を落とす可能性を、憂いてくれているかもしれない。

確かに私は、この黑川杯を通じて、いわゆる「活動家」と知り合い、その人らと親しい会話を交わした。 彼らとの会話は心地よく、彼らに魅力を感じているのは事実である。

しかし私は、徒党を組むのが嫌いだ。徒党を憎んでおり、徒党を恐れている。

共同体の「ウチ」は、それ自体として存在するものではない。 共同体の「ソト」を定義して、ソトを排除することで初めてウチが立ち現れる。 共同体という概念は、それがどれだけ包摂的な思想を掲げていようと、宿命として、排外的なものである。 私はその排外性に対して、パラノイアにも近い恐怖を覚える。

唯一、私に宿っている思想、私に宿っている正義を明文化するとすれば、「何者をも切り捨てない」である。

私はどんな凶悪犯であろうとも絶対悪として切り捨てない。 彼が確固たる思想によって犯罪を犯したならば、そのような思想を抱き、犯罪に至るまでに信じてしまった、彼を悼む。 彼が心神耗弱状態で犯罪に至ってしまったならば、そのような状態にまで追い込まれてしまった、彼を悼む。

私はどんな模範市民であろうと絶対善として受け入れない。 彼が模範的であるべきと無批判に信じているのならば、模範に対して批判的視点を欠いていることに対して、彼を憎む。 彼が自覚的に模範的たらんとしているならば、模範的でない部分を押し殺してまで模範に頭を垂れる敬虔さに対して、彼を憎む。

私は私の敵を慮る。私は私の友を疎む。

私はあらゆる共同体から爪弾きにされうるというパラノイアを抱え、それを矯正して切り捨てることを恐れる。

私は何者をも切り捨てない。

切り捨てられる何者かは、ある側面において、愛すべき私である。

切り捨てる何者かは、ある側面において、憎むべき私である。

だから私は、私自身を愛し、私自身を憎むがゆえに、何者をも切り捨てない。

この姿勢に対して自覚的になれたのは、つい最近(しかし黑川杯立案よりはずっと前)のことである。 なので、古くから私を知る人にとっては、私が変わってしまったように見えて、怖い思いをさせてしまっているかもしれない。

確かに私は変わってしまった。しかし、私は変わっていない。私が研ぎ澄まされて、私の本質があらわとなり、私という存在が鋭くなった。それだけの変化である。

なので、活動家界隈からの悪影響を心配している方は、安心していただきたい。 私はどのようなオルグに対しても拒否感を示す。

しかし同時に、常にオルグに対して拒否感を示せるほど、真摯で敬虔な者でもない。 私は弱い。短気で、せっかちで、すぐにカッとなって衝動的な行動に走ってしまう。 なので、目に余る行動があったら、それとなく知らせてほしい。 その忠告を、私は私が私自身を見つめ直すシグナルの一つとして、使わせていただく。 見つめ直した結果、忠告に従わないことも多々あるだろう。私は頑固者である。 しかし、少なくても、私を慮って忠告してくれたこと自体に対して感謝を示せる程度には、私は他者に敬意を払っている。そのつもりである。

ツイッターの使いみちも、私の主観としては、以前と変わりない。 思いついたネタをツイートして、気になったことの話をして、好きなことを話して、人とリプライを交わす。それ以上でもそれ以下でもない。 最近は仕事が忙しくて、アニメや映画を全然見られていないが、面白そうな作品は次々発表されている。早く見たい。

もしかすると、私のツイートは、フォロワー諸氏の求めているものではないかもしれない。 そのときは、あなたが好きなことについて、楽しそうに話してほしい。 私は移り気で尻軽なので、楽しそうなことにはすぐに飛びついてしまう。 あなたが楽しそうな話をしていて、私がそれに興味を持ったら、私はその話をし始めるだろう。

ぜひとも、あなたの話をしてほしい。

私は、あなたが知りたい。 あなたと私のどこが同じで、どこが違い、どこがどちらとも言えないのか、その境界を見定めたい。 その境界こそが、私ではないあなたの輪郭である。その境界を追い求めるほど、あなたの輪郭はより鮮明になっていく。 好きな相手のことだったら、私はどれだけ解像度を上げても飽き足らない。私は探究心が旺盛である。 その観察的な視線に嫌気が差したときは、申し訳ないが、優しく諭してブレーキをかけてほしい。 愛すべき友人を解剖にかけて喜べるほど、私は悪趣味になりきることができないのだ。

際限なく書き連ねることは可能だが、説明責任を果たす目的ではこの程度で十分だと判断して、一旦筆を擱く。

3.むすび

私は自分について語るのが嫌いである。

それは、「私の姿をよく知られたら嫌われる」というパラノイア的強迫観念であり、自分のことをベラベラ話すのはダサいという美意識であり、自分のことを話すのは恥ずかしいというシャイさの発露であり、生き様で語る新宿 Style への憧れである。

黑川杯に関しても、十分に世間的に話題になった現在、これ以上私が躍起になってツイートするのはむしろイタいだろうと判断して、ある段階から意識的に私としての言及を避け、関係者の言論のRTに留めていた。

しかし、自稱家元氏の総括文を拝見し、突然押しかけた私が自らについて明かさないのは、黑川杯に尽力してくださった氏に対して礼を失すると判断したため、このような長文をしたためた。

氏とは短い付き合いである。twipla を見るまで存在も知らなかった。細々した連絡は交わしたが、通話したのは開催前の一度きり、実際に会ったのは当日の一度きりである。

しかし私は、氏を信頼している。十年来の友人たちと同様に、あるいは、ある側面においては彼ら以上に、氏を信頼している。氏は「旧知の間柄のような気がする人」であると、私は思っている。

信頼とは同調ではない。氏の思想は、むしろ私にとって、理屈は分かるが承服しがたいことのほうが多かろうと思うし、そもそも氏の主張についてよく知らない。

しかし、黑川杯に対する真摯な態度とバランス感覚を通じて、私は氏を信頼した。 もし今後、氏が同様の面白い企画を発案し、私がそれを「面白い!!!」と感じたら、 私は躊躇うことなくその企画に飛び乗り、私の持ちうる全てをもって、面白い企画をもっと面白くするために尽力するだろう。

そのような私の行動や態度は、社会の一員として生きる者として、正しいことでは決してないだろう。 しかし私は善良な市民である。少なくとも、そのようにありたいと願い、そのようにあれるよう努力している。

私は、法や文化を尊重して人を敬愛する善良な市民でありたい。

私は、法や文化を崇拝して人を警戒する正しい臣民でありたくない。

私は、私でありたい。

ただそれだけのことである。

私の全ては、本当に、ただそれだけなのである。

【黑川杯体験記、ならびに私の現況説明、あるいは(私としては極めて珍しい)思想の明文化、またはノンポリイッタラーは如何にして心配するのを止めて黑川杯に参加するようになったか】

『天気の子』短く総括

前回の記事はあまりにも長すぎる上に要領を得なかったので、『天気の子』がどういう作品だったのか改めて短く総括します。

  • どうしようもなく壊れた世界で、どこか正しくないところを抱えながら、僕たちは生活している。(終末系日常もの)
  • その生活は正しさを求める世界のうねりによって簡単に失われてしまう。(新日常系*1
  • 僕たちは、正しさと生活を天秤にかけることを迫られる。そのときは、たとえ正しくないとしても、生活を選んでいいのだ。(セカイ系+α)
  • そうして選び取った世界は、恐ろしくも美しく、愛おしいものになるだろう。

イカれた世界に生きる若者たち・私たちに向けたエールであると私は捉えました。

*1:新日常系が入っているという点は私が気付いたものではなく、某氏の指摘で気付かされたものです。感謝します。

『天気の子』は終末系日常ものの記念碑的作品である

筋金入りとまではいかないにせよ、うるさ型のオタクを自認する私は、『天気の子』にさして期待を抱いてはいませんでした。

秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』に強く惹かれ、『君の名は。』については「良い作品だが取り立てて絶賛するものでもない」という評価に留まった私は、『天気の子』に対しても「新海監督がまた『君の名は。』みたいなのを作るんだな」程度の粗い事前認識しかなく、公開日すらよく把握していない状況でした。

ですがその先入観は実際に鑑賞したことで一気に覆されてしまいました。開始10分程度*1で私の中にある認識が芽生え、それは映画が進むにつれて補強されていき、ラストまで裏切られることはありませんでした。そして鑑賞後、パンフレットに掲載された新海監督のインタビューを見たことで、それは確信へと至ったのです。

その認識とは、他ならないこの記事のタイトル、「『天気の子』は終末系日常ものの記念碑的作品である」という主張でした。

いい機会なので、終末系日常ものに関してこれまで考えていたことのまとめを兼ねて、『天気の子』感想記事にしたいと思います。

以下では鑑賞済みを前提として話をします。盛大にネタバレをする上に見ていないと話が分からないかと思いますので、未見の方は今すぐブラウザバックして劇場に駆け込んで鑑賞してから読むことをオススメいたします。

前段・終末系日常ものに関する一般論

終末系日常ものの特徴付けと具体例

「終末系日常もの」とは、ある作品群に対して私が勝手に*2名付けているカテゴリであり、おおよそ次のような点によって特徴づけられます。

  • 大局的な見地から言って、世界が既に修復の余地なく破壊されている。
  • しかし一方で局所的な生活は維持できないこともない。
  • 人物たちは世界が壊れてしまった理由にアクセスできない・しようとも思わないまま、比較的安穏とした生活を営んでいる。

要するに「ポストアポカリプス世界でスローライフ」と言い表せるような作品のことです。

典型的な例として『少女終末旅行』が挙げられます。

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

 

また、アニメ『けものフレンズ』1期があれほどの人気を博したのは、明示的ではないにせよ、終末系日常ものの匂いがあったことが一因であると私は考えています*3。その雰囲気は同監督の『ケムリクサ』においてより明確に打ち出されました。

けものフレンズ Blu-ray BOX

けものフレンズ Blu-ray BOX

 

この類型のはしりとして『ヨコハマ買い出し紀行』が挙げられることが多いですが、私はまだ見ていません。すみません。

最近では(ドンピシャは中々ないにせよ)類作がポコポコ出ていて、例えば『旅とごはんと終末世界』や『終末の貞子さん』がそのような雰囲気を帯びています。

終末の貞子さん (MFコミックス ジーンシリーズ)

終末の貞子さん (MFコミックス ジーンシリーズ)

 

ゲーム分野では、アトリエの黄昏シリーズや、近日発売された『じんるいのみなさまへ』が世界観として近いようですが、こちらもプレイしていません。すみません。 

アーシャのアトリエ Plus ~黄昏の大地の錬金術士~ - PS Vita

アーシャのアトリエ Plus ~黄昏の大地の錬金術士~ - PS Vita

 

とまぁずらずらと並べてみましたが、このように終末系日常もの作品は、数年前頃から活発になり始めて本年(2019年)においても勢力を伸ばしつつある、と言ってよさそうです。このあたりの歴史にも興味はありますが、私はまだ調べ尽くしていません。

なぜ終末系日常ものなのか

私がなぜ終末系日常ものに注目しているのか。それは端的に言って、終末系日常ものが現代の戯画であると考えているからに他なりません。

だって考えてみてください。

今の社会、ぶっ壊れてませんか?

年金や貧困の問題は言うまでもなく、世界情勢も一向に安定の兆しが見えない中、日本の国際的地位・社会的基盤は年々どころか日に日に危うさを増している……その認識は、少なくとも国内の若年層~壮年層に共有されているのではないかと思います*4

しかもその崩壊に、我々は直接関与できなかった。物心ついた頃から失われたウン十年と言われ、社会制度の大枠は生まれる前に固まってしまっていた。

もちろん投票や政治活動といった行動によって世界に働きかけるチャンネルは存在しているものの、全共闘世代においては少なからずリアリティを有していたであろう「自分たちが戦い抜けば世界はより良くなる」という情熱は、現代では既に絶えてしまったと言ってよいのではないかと思います。

でも、ぶっ壊れた社会でも、私たちは生きてませんか?

自分の先行きに対して明るい印象は全く抱けないが、しかし一方で明日いきなり死ぬようなことは流石に無いだろう、大部分の方がそのように思っているではないかと思います*5。むしろ、不自由が無いではないにせよ、自分の手の届く範囲の生活にそれなりの満足を持っている方がほとんどでしょう。

先行きについては全くもって悲観的でありながら、身近な日常においては満ち足りて生活を営んでいる。それが“若者”の生きている日常の姿であるとの指摘は、社会学者・古市氏の著書『絶望の国の幸福な若者たち』においてなされています*6。この書籍の初版は2011年ですが、この傾向は近年において決して弱まっていない、むしろ社会全体に浸透しつつあると感じています。

そして上の話を見れば分かるように、現代の若者の日常は終末系日常ものであると私は考えているのです。

 

本論・『天気の子』感想

その1・終末系日常ものとしての『天気の子』

さて、長い前置きを終えて本題に移りましょう。

本作『天気の子』の中心的な主題は雨です。連日降り続く記録的な長雨と、その雨を晴らすことができる少女が映画の中心となっています。

そして、これが極めて重要なのですが、本作における異常な雨は狂いつつある現代世界の象徴に他なりません。これは何も私の狂信的妄想ではなく、新海監督自身がインタビュー*7において(一言一句同じではないにせよ)語っていることです。

本作における「雨」とは、現代社会を覆っている閉塞した空気感そのものです。陰鬱な空気が世間を支配して、人々はうつむいて足元の水溜りを避けながら歩き、たまに見上げては降り止む気配のない雨脚を憂い、老婦人は「昔はこんなことは無かった」と若者を憐れむ。そんな街に主人公・帆高はやってきます。

しかし、そんな東京は決して絶望に染まった街ではありません。人々は雨に困らされながらも各々の生活を大きな支障なく営んでおり、帆高もまた、初めは上手く軌道に乗らない苦労を重ねていましたが、やがて街に馴染み溌剌とした生活を送っています。

そう、この映画は出発点において既に終末系日常ものなのです。いつまでも続く雨模様に人々は為す術なく、しかしそれをどうすることもできないまま、各々にそれなりの日常を営んでいます。

この雨、すなわち閉塞した空気は、一時的に晴らすことができます。それは、帆高にとってはヒロイン・陽菜との出会いと交流であり、陽菜の特殊な能力であり、現実においてはきっと素晴らしい芸術作品との出会い、スポーツ選手の目覚ましい活躍、愛する人との楽しいひとときであるのでしょう。しかしそれは永遠ではなく、再び陰鬱な雨が世界を覆い尽くし、人々は日常へと戻っていきます。

物語のラストにおいて、ついに雨は晴らすことすらできなくなり、東京水没という破滅的な事態を齎します。雨は二人にとって重要な場所である廃ビルや穏やかな下町の家*8を破壊し、もはや後戻りのできない喪失を帆高に与えます。

しかし、そのような状況においても、人々は絶望に打ちひしがれてはいません。新たな地に居を移し、春になったらお花見を楽しみにするようなささやかな生活が再び営まれ、その中で帆高と陽菜は再会し物語は円団*9を迎えます。この映画は着地点においても終末系日常ものであるわけです。

この作品に終末系日常もの的世界観が充満しているという主張は、作中で帆高たちが歌う2曲のヒット曲「恋するフォーチュンクッキー」「恋」によっても補強されます。これらの歌詞から引用しましょう。

恋するフォーチュンクッキー! 未来はそんな悪くないよ

意味なんかないさ 暮らしがあるだけ

前者は無根拠でありながら底抜けに明るい楽観を、後者は大きな意味が消失した現代における生活の実感を歌い、共にヒットナンバーとなりました。これらに反映されている現代の意識こそが終末系日常ものの世界観であり、それが『天気の子』にも反映されているのです。

このように、『天気の子』は終末系日常もの的な地点から出発し、日常描写においてその空気を保ったまま進行し、終末系日常ものへと回帰していく構図を持ちます。そして既に述べたように、終末系日常ものは現代の写し絵です。

つまり、『天気の子』は終末系日常もの的な現代に根ざしてそれを鮮やかに描いた作品であると言ってよいかと思います。

具体例の節で挙げているように、終末系日常もの作品は勢力を伸ばしてはいるものの、決して主流を占めているわけではなく、「知ってる人は知っている」という立ち位置であるのが現状です。その状況において、あの新海監督が終末系日常もの的な価値観を有する新作を世に出したわけです。これだけでも記念碑的な大事件でありましょう。

その2・『天気の子』と選択

さて、『天気の子』は終末系日常ものとしての性質を有している、という話をしましたが、しかし同時に、従来の終末系日常ものとは一線を画する部分も有しています。

従来の終末系日常ものにおいて、終末の理由は(私が知る限りでは)明確に語られません。終末は人々の手の届かないところで発生し、世界は既にどうしようもなく壊れた状態で人物たちに与えられます。

しかし本作において、終末の決定権、即ち雨を止ませるかどうかという最終的な選択は主人公である帆高に委ねられています。作中人物に終末の決定権が委ねられているという点で、本作は従来の終末系日常ものとは様相を異にするものです。

「陽菜を取り戻せば世界に取り返しのつかない事態が起こる」という構図はむしろ、セカイと世界の接続というセカイ系的な文脈に属しています。ヒロインと世界の二択を迫られるという類型はセカイ系の一条件として挙げられる事項です*10陽菜を巡る物語はもっぱらセカイ系的なスキームで駆動しているのです。

そして帆高は陽菜を選ぶことで、止まない長雨、即ち終末を齎すこととなります。前節において、本作は導入においても結末においても終末系日常ものであると述べました。しかし実は両者のあり方は同一ではありません。導入における狂った世界は与えられたものであるのに対して、結末における狂った世界は選び取ったものであるのです。

ここで少し脱線しましょう。新海監督とセカイ系といえば、セカイ系の典型として挙げられる『ほしのこえ』が想起されます。『ほしのこえ』において主人公は、世界を担って戦うヒロインを送り出すことしかできません。これは即ち、彼女を選んだ際に訪れる終末を彼は担えなかったということでしょう。

さて、翻って『天気の子』です。確かに帆高の選択によって終末が齎されました。しかしそれは、従来のセカイ系において語られていたような全てが死滅するような終末ではありません。遠く離れた島には何の関係もない、水没した東京でも何だかんだ人々は生活している、そんなゆるい終末がやって来たのでした。この「何だかんだ生活できるゆるい終末」というのは終末系日常ものの世界に他なりません。帆高が選び取ったのは陽菜であると同時に、陽菜と共に営んでいく終末系の日常であるのです。

さて、『天気の子』はセカイ系の構造を用いて終末系の日常を能動的に選択する物語であったことが分かりました。選択というものについて、新海監督はインタビューの冒頭で言及しています。先人たちの選択の結果によって生み出された終末世界を、若者たちは選択の余地なく与えられてしまいます。この「与えられた終末世界」の内に愛すべき日常を見出し、自分たちのものとして改めて選択する物語が『天気の子』なのです。

その3・“正しくない”世界の肯定 

帆高はセカイ系的な選択に迫られ、陽菜を選んで終末を齎しました。個人的な心情としてはこれでメデタシメデタシで良いのですが、我々は社会的な存在である以上、常に問われ続けることがあります。

果たしてこの選択は正しかったのだろうか?

良識的な人であれば、この質問にはうなずきがたいでしょう。あるいは最大多数の最大幸福の原則によれば、誰か一人の犠牲によって東京全体が救われるのならばその犠牲は許容されるべきものです。誰か一人のために数万人の生活に負担を強いることは常識に則っても承服しがたいでしょう*11。「これで良かったのか?」という問いが本作のラストには付きまといます。

これに関して、帆高が正しかったと全面的に断言することは私にはできません。しかし、逆に問い返すことはできます。

果たして正しいことは善いことなのでしょうか?

この問いに迫るために、本作における警察の立ち回りについて考えてみましょう。

本作において警察は常に正しい存在として描かれています。彼らの主張や行動は常に正しく、職務に忠実です。そしてその正しさによって帆高を追い、陽菜たちの生活を脅かすこととなります。正しい人々は、その正しさによって正しくない人々の生活を解体する宿命にあるのです。

その姿は、是枝裕和監督の『万引き家族』において描かれていたものと通底しています。貧困ゆえに正しくない行為で結束していた家族は、正しさに晒されたことで解体し、世間に取り込まれていきます。

是枝監督は「正しくないものを排斥するのか」と問いかけました。そして新海監督はそれを一捻りして、「正しくないものも受容しよう」と主張しているのです。

正しくないもの、それは狂った世界、雨の東京です。晴れることが正しい*12と迫る世界に対して、帆高は「天気なんて狂ったままでいいんだ」と正しくない世界を受容します

正しくないもの、それは貧困です。古アパートに住む貧乏暮らしの陽菜と凪は、しかし困窮している様子は見せず、貧乏なりに工夫を凝らして生活する魅力的な人物として描かれています。現代において貧乏とは、排除すべき悪でも憎らしい敵でもなく、上手く付き合っていくべき隣人であるのです*13

正しくないもの、それは拳銃です。偶然手にした拳銃を所持し使用した帆高に対し、陽菜は初めは糾弾の言葉を投げますが、その後彼を受容して心を開きます。そしてこの拳銃はクライマックスにおいて大きな役割を果たしたのでした。

正しくないもの、それは水没した東京です。見慣れた東京の街が水没する恐ろしさ。しかしそこでも人は生活できる。決して正しくない世界において、「だからなんなんだとある意味開き直って生きていく*14。それこそが、終末系日常ものの現代における我々の態度であると、新海監督はそのように提案しているのではないでしょうか。

これは、良識的な一般市民の皆さんにとっては挑戦的な内容であるかと思います。監督が「ラストの反応だけは想定できていない」と述べたのはこのような意味ではないかと思います。

その4・セカイ系としての『天気の子』

さて、セカイ系の1バリエーションとして『天気の子』を見ても、従来の作品と異なる部分があります。

セカイ系において描かれる世界の終末は、それによって人類や地球、身近な生活全てが破壊されるような真の終末であり、そこで全てが終わりを迎える真の終末です。しかし、『天気の子』において齎された終末、即ち水没した東京は、そこに息づき生活することが許されるようなゆるさを備えた終末系日常ものの世界です。「終末を迎えたその先」がゆったりと続いているという点において、『天気の子』はセカイ系としても特殊な位置にあるのです。

 追補・ラストについての注釈 - 取り戻すべき日常の姿

ツイッターで作品の反応を見ていると、やはりラストに対する動揺が散見されます。東京が丸ごと水没して、人々が避難生活を余儀なくされているのに、これをハッピーエンドとして受容してよいのか、という躊躇いです。

私としては、開始10分から待ち望んでいた展開が十全に結実したラストであったので、劇場で内心大喝采を上げていたのですが、しかし何の前提も無しであれを許容するのは難しいのかもしれません。

確かに、『天気の子』のラストは一見ハッピーエンドとは言い難いでしょう。ハッピーエンドとは、追い求めていた対象(ここでは陽菜)と共に取り戻すべき日常へ帰っていくシークエンスであるはずです。

しかしここで問うべきは、「『取り戻すべき日常』とは一体何であったか」という点なのです。

取り戻すべき日常とは、晴れ渡った東京であったのでしょうか? ――答えは否です。晴れ渡った東京において人々は明るい顔を空に向け、警察は己の職務を執行して正義が街に行き渡っています。しかしその街は、正義によって排除される者によって成り立つ世界に他なりません。

陽菜の犠牲によって齎された天候の均衡は、しかし永遠のものではありません。いずれ再び均衡は崩れ、世界は人柱を求めるでしょう。そのことは、繰り返されてきたという天気の巫女の歴史によって物語られています。『晴れ』の世界は、明るく幸せではあるが常に排除される者の犠牲によって束の間与えられるものでしかないのです。

本記事を読んできた皆様ならばお分かりでしょう。取り戻すべき日常は『晴れ』ではなく『雨』なのです

新海監督はインタビューにおいて、「調和を取り戻す物語はやめようと思っていた」と語っています。ここにおける『調和』とは『晴れ』に他なりません。本作において取り戻すべきは「狂った世界」=雨の東京である、と明確に意識した上で制作されています。

以上の内容は物語理論的にも支持されます。物語構成における三幕理論は、主人公たちが取り戻すべき日常は「第一幕」において描かれると教えています。第一幕は映画全体において最初の1/4程度を占めている部分です。

さて、『天気の子』において、開始から1/4経った時点はどんな場面だったでしょう。それは帆高が事務所での居場所を確立し、RADWIMPSの歌を背景に、雨の東京を駆け回っていた、あの場面に他なりません。第一幕において確立した、雨の東京における日常。それこそが、帆高が取り戻すべき日常なのです。

東京全体が水没したラストの絵面は空恐ろしくショッキングです。しかしその恐ろしさは雨の東京に内在していたものに他なりません。そしてその光景は恐ろしいと同時に美しく、そしてそこに息づく人々の生活―破局の先にある日常―を伴ったものです。

水没した東京は、恐ろしくも美しく、そして愛おしい。それこそが現代を生きる我々の日常の姿であると、あのラストは告げているのです。

雨の東京においては内在するに留まっていた破滅は、帆高が自分の日常を選択し、引き受けたからこそ、顕在化し美しさを明らかにしました。自らの、終末系日常ものとしての生活を認識し、その恐ろしさを飲み込んで引き受けることを、新海監督は訴えているのです。これは何も私の妄想ではなく、新海監督はインタビューで『天気の子』を「狂った世界を選択し、ある意味開き直って生きていく話」であると語っています。

終局の上で微睡む日常の切なさと美しさは終末系日常ものの醍醐味です。新海監督が、全国の中高生が見るような舞台において、最高の映像と万全のシナリオでもってそれを提示してくれたことに、私は快哉を叫びたいと思います。

よくやった、新海誠!!!!!!!!

追補・津波との関係 - 災害後の生活

水没した東京のビジュアルと、主に東日本大震災における津波の映像の類似を指摘する方もおられるかと思います。おそらくその指摘は正しく、あの東京は災害に見舞われた都市の姿でもあるでしょう*15

そしてその上で、東京を災害から抜け出さないままエンドマークを迎えることに疑義を唱える方もおられるかもしれません。その点についてははっきりと反論させていただきたい。東京から災害が去ることで一件落着と言えるのでしょうか?

災害とは、その場限りのものではありません。災害が訪れた後、多くのものを失った後に横たわる茫漠な生活こそが真の正念場であると言います。一度訪れた災害は、その後長く、一生にも及ぶ時間、人々の隣人として居座るものです。

その観点については『シンゴジラ』においても描かれていました。凍結されたゴジラは東京の中心に佇み続け、我々はゴジラと向き合い続けるしかない、というラストです*16庵野監督はゴジラ東日本大震災を仮託し、警鐘として描きました。

同じように新海監督は、東京を水没させた豪雨に、東日本大震災、そして景気の低迷や社会保障危機といった無形の災害を重ね、狂った世界に生きる若者たちへのエールとして描いているのです。

蛇足・終末系日常ものとは一切関係ない雑感

終末系日常ものとは関係ありませんが、『天気の子』の感想の一部ということでこの記事にまとめさせてください。飛ばしても論旨には問題ありません。

  • 本記事では終末系日常ものに焦点を当てていますが、鑑賞中に感動したのはむしろシナリオ構成の確かさでした。新海監督がこんなにしっかりした長編シナリオを書くようになるなんて……(謎の保護者目線)。鑑賞しながら一応シナリオ分析的なことも考えていましたが、王道も王道な展開だったので大して目新しいこともなく、わざわざ文章化はしません。
  • 途中で「お盆」について説明し始めるくだり。初見では「お盆を知らない人居るわけないでしょw」とウケてしまいましたが、しかしこれは海外展開を見据えた配慮なのでしょうね。実際思い返すと、『君の名は。』と比べて日本文化を知らないと分からないことが極めて少ない気がします。きちんと検証していないですが。
  • 花火のシーン。打ち上がる花火の合間を縫って飛んでいくカットに重きを置かれていて印象深かったです。これはきっとドローン撮影の映像感覚で、新海監督は映像表現の面でも現代的であることを再確認しました。
  • 瀧と三葉がゲスト出演していて少し嬉しくなりましたが、冷静に考えると「故郷の村が彗星で消滅して東京に出てきたのに数年で水没」ってあまりにもひどくないですか。しかし新海監督は雪野先生でも似たようなことしてるしなぁ……。細かいことは気にせずスターシステムと割り切ればよいのでしょうか。あと四葉も居たらしいけれど分かりませんでした。

『天気の子』、ちょーおもしろかったです。

 

 

 

 

 

……で終わるのは流石になんなので、本記事の論旨をまとめます。

  1. 『天気の子』は終末系日常もの的世界観に支配されながら、同時にセカイ系としての構造を有し、その結果、どちらとしても特異なあり方を示すものである。
  2. 『天気の子』は終末世界を与えられた主人公が、セカイ系的過程を経て、終末世界を自ら肯定し引き受ける物語である。
  3. 『天気の子』は終末系日常もの的な現代を鮮やかに描いた作品である。

以上、乱文失礼いたしました。ご覧いただきありがとうございました。

本記事が皆様に新しい知見を与えたことを祈ります。もしそうであれば、その知見を念頭に置いて再び鑑賞いただくのも一興かもしれません。

また、本記事と合わせて新海監督のインタビューをご覧になることを強くおすすめします。終末系日常もの的世界観が現代の若者にとって標準であることを、監督が感じ取った上で制作していたことが窺える内容となっているはずです。

*1:体感なので正確ではないかもしれません。

*2:他にも同様の概念を名付けている方はいるかもしれません。少なくとも私は明示的にそのような方々から引用しているわけではない、という意味です。

*3:もちろん当時のムーブメントに参画していた全員がそれを意識していたとは思いません。念の為。

*4:そんなことはない、世界はこれから良くなっていくし将来は薔薇色だと思っている方もいるかもしれません。すみませんが、私はそうは感じられません。

*5:もちろん、今にも死にそうな苦難の中に居るかたもおられるでしょう。また、つい先日京都アニメーションで起こった痛ましい事件は、我々の日常の脆さを痛感させました。しかし、幸か不幸か、今の社会においてそれは大多数ではありません。そのような事態が大多数となれば社会は維持できません。黙殺したいと思うわけではありませんという旨を付け加えさせてください。

*6:当該書では“若者”とは何たるかについて紙面を割いて考察していますが、ここでは割愛。

*7:映画パンフレットに掲載されたインタビュー。以下でも同様。

*8:冨美の家はインタビューにおいて「聖域」と表現されています。

*9:この結末を円団と捉えられない方もいるかと思いますが、その点については後述。

*10:しかし私には具体例がパッと思いつかないですが……。

*11:インタビューにおいて、新海監督は常識や最大多数の最大幸福を帆高の敵と明言しています。

*12:作中、警察の力が最も強く発揮されていたのは、陽菜が居なくなった晴れの東京においてでした。

*13:インタビューにおいて新海監督は、若者にとって貧困が当たり前になっている、と言及しています。

*14:インタビューより。

*15:そもそも作中の豪雨自体が未曾有の災害です。

*16:これが原子炉の象徴であることは言を俟ちません。